戦国時代に消えた黄金と「帰雲城」を探す旅へ 地下には数兆円の金が眠っていた?【岐阜県白川村】

ドキュメンタリー

世界遺産「白川郷」で知られる岐阜県白川村には、かつて黄金と共に消えた城「帰雲城(かえりくもじょう)」があった。最後の領主は戦国武将の内ヶ嶋氏理(うちがしま・うじまさ)。当時天下統一を始めた豊臣秀吉と対立し敗北するも、なぜか一族は滅ぼされなかった。理由は「いくつも金山を抱え、大量の黄金を蓄えていたから」とされる。

これまで城の位置は分からなかったが、2017年から2019年にかけて行ったテレビ愛知による歴史捜査で、新たな事実が明らかになった。

白川村は“金山”が点在する場所か

  • 帰雲山

舞台となるのは「白川郷」からわずか8キロメートルほど離れた「保木脇(ほきわき)」地区。目の前には庄川が流れ、見上げれば帰雲山が鎮座するこの一帯は、戦国時代から約120年にわたって戦国武将の内ヶ嶋が統治していた。

しかし天正13(1586)年に「天正大地震」が起き、帰雲山が崩壊。大量の土砂が帰雲城のほか城下町を一気に飲み込み、内ヶ島一族は滅んでしまった。削れた山肌が、当時の被害の甚大さをうかがわせる。

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そもそも飛騨は雪深く、決して安寧な土地とはいえない。なぜこの地に領地を築いたのか、理由を村人に話を聞くと「金が取れる」「“金山”が点在している」という夢のような話が返ってきた。「神岡鉱山史」によれば、白川郷の周りにはかつて6つの金山と1つの銀山があったという。

  • 白山長瀧寺にある古文書

    白山長瀧寺にある古文書

養老年間(717年〜724年)に創建された飛騨の古い寺「白山長瀧寺」を取材すると、古文書には《文禄3年4月より、白川の山の中にて黄金が出た。翌年、岩瀬に1000軒余りの町ができた》と記されている。

  • 砂金・砂白金学会の広瀬義朗さん

    砂金・砂白金学会の広瀬義朗さん

「(内ヶ嶋氏は)おそらく砂金採りをメインに、金をとっていたんだと思います。金を管理しやすい土地に城がある印象です」

そう話すのは、砂金・砂白金学会の広瀬義朗さん。飛騨地方の金山を調査していて、すでに保木脇の辺りで金の採掘跡を発見していた。

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採掘跡まで案内してもらうと、土の中から砂金だけを取り出したと思われる遺構を見つけた。飛騨は全国でも有数の砂金掘りの跡がある、と広瀬さんは話す。

“戦国マネー”の中心地が白川村?

  • 軍配

    織田信長が内ヶ嶋氏に贈ったとされる軍配

天正大地震で一族が滅びるまで内ヶ嶋氏を味方に付けていたのは織田信長だ。当時の記録によれば、信長が上洛を果たした翌年の永禄12(1569)年、二代目城主の内ヶ嶋雅氏(まさうじ)の息子・道雅(どうが)と岐阜城で面会。この時信長は、内ヶ嶋氏に「軍配」を贈っていた。

  • 織田信長と面会したとされる様子が古文書に記されている

    織田信長と面会したとされる様子が古文書に記されている

軍配を所蔵する白山文化博物館の主任主査、鈴木雅士さんは、おそらく信長は内ヶ嶋氏に軍資金の見返りとして授け、代わりに「(領地は)安堵してもらいたい」との意味を込めたのではないかと推測する。

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そして信長の死後、内ヶ嶋氏は豊臣秀吉に歯向かったが、金山の大きな後ろ盾により領地を奪われることはなかった。歴史を動かす“戦国マネー”の中心地は白川村だったのかもしれない。

そんな内ヶ島氏が守り抜いた帰雲城は、どこにあったのだろうか。

帰雲城はどこにあったのか

  • 東京ドーム4個分(横600メートル、縦300メートル)の広大な土地に帰雲城があった可能性

    東京ドーム4個分(横600メートル、縦300メートル)の広大な土地に帰雲城があった可能性

30年にわたって帰雲城の場所を調べている「白川郷埋没帰雲城調査会」は、飛騨国中案内などの文献や、白川村役場所蔵の帰雲川原の古地図を読み解き、帰雲川原にあったと断定した。現在の地図に照らし合わせると東京ドーム4個分(横600メートル、縦300メートル)の広大な土地だ。

  • 622メートル地点の丘

    622メートル地点の丘

天正大地震で埋まった土砂は約7万7000トン。水面は最大620メートルの高さと推定された一方、同調査会の今井桂さんは「唯一水に浸からなかった622メートル地点の丘がある」と語気を強める。その場所には城の石垣と思われる遺構があり、「当時の出城、のろし台ではないか」と考えた。

城郭考古学者で奈良大学の教授である千田嘉博さんに見てもらうと「ただの場所ではなく、中世の城跡。生活するには狭いため、別の場所に拠点となる本城があり、連携して見張りをするような砦だったのでは」と考察する。

物見櫓があったとすれば、この場所から見える範囲に帰雲城がある可能性が高まった。

いよいよ発掘調査開始

さらに当時の水路も調査して場所をピックアップし、発掘調査に乗り出した。

GPSで高度と地表面の高さを調べて計算したところ、戦国の地層にたどり着くには12メートルもの掘削が必要となる。建設会社と発掘調査のプランを練り、奥行き30メートル、幅18メートルの広さのすり鉢状に穴を掘ることにした。

2つのショベルカーの連携プレーで掘り進めていく。目標まであと4メートルに近づいたとき、砂粒の多い土質に変化したのが分かった。帰雲城調査会の今川さんは、天正大地震のときに川から押し流された土砂ではないかと推し量る。

  • 青い粘土層から古木を発見

    青い粘土層から古木を発見

目標の深さ12メートルに到達したのは発掘5日目だ。地層の変化を注意深く見守っていると、青色に染まった粘土層が見えてきた。土には丸い石が含まれていたため、すぐさま砂金・砂白金学会の広瀬義朗さんに見てもらうと「川原の石ではないか」とのこと。しかも石は青い粘土層にしか含まれていないのだ。

さらに取材スタッフは、青い粘土層に木が埋まっているのを発見した。

地層から5つの古木を発見

出土した木片は全部で5つ。中でも人の手が加えられた可能性があるものを放射性年代測定に回した。不純物を取り除いた木片から年代を特定すると、戦国時代の可能性があるとのうれしい見解が。

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パレオ・ラボ 中村賢太郎さん:
「帰雲城が存在した時代を含む前後の時代ですね。粘土層がたまった時代も、戦国時代の可能性が考えられます」

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とはいえ小さな木片だけでは特定が困難。発掘の最後に見つかった大きな木片も、中村さんに鑑定してもらうも、かなり疑わしいが、断定はできなかった。

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南西へと続く青色の粘土層の様子をかんがみると、この先に帰雲城のものだといえる確かな証拠が埋まっているのではないか。村人の間でささやかれた「金が取れる」とのうわさは、夢の話ではないのかもしれない。

※この記事は2019年12月28日に放送された番組「消えた戦国の城~白川郷の埋蔵金を追え!~」の内容を一部抜粋しています。

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