森繁和×辻発彦 昭和時代のパ・リーグ球場の思い出を語る 後編

ドラゴンズ

  • 森繁和(左)と辻発彦(右)

西武黄金時代の名投手・名選手だった森繁和と辻発彦が当時のパ・リーグ球場の思い出を語る第2弾。

近鉄の本拠地だった大阪の日生球場

  • プロ初登板が日生球場だった森

近鉄が本拠地として使っていた大阪の日生球場。昼間はアマチュア野球で多く使用されていた。

森「(アマチュアの試合後)俺らが行ってもお客さんがそのまま残っていた」と当時を回想。

大阪市内の真ん中に建てられた球場とあって両翼約90メートル、中堅116メートルとプロ仕様の球場にしては狭かった。

辻「高校生は金属バットだからスタンドの中段まで飛ばしていた」

森は本当に両翼90メートあったのかどうかは疑問だったと首をかしげた。

その日生球場で森はルーキーイヤーにプロ初登板を果たしたが4回途中5失点で敗戦投手になった。

あの時、森は「近鉄打線に癖を見抜かれていた」と自分の未熟さを笑った。

1984年以降は日生球場での近鉄の試合も減り、同年に西武に入団した辻は「ほとんど思い出はない」と語った。

阪急ブレーブスの本拠地だった西宮球場

  • 西宮球場の思い出を語る辻

続いて阪急ブレーブスの本拠地だった西宮球場。

グラウンド内にバンクを設置して野球のない日は競輪も開催されるという一面もあった球場だ。

森「ここのイメージは茶色い赤っぽい外野の芝生」とメジャーリーグの球場のようだったと振り返り、辻も当時の球場の中では好きな球場の一つだったと語った。

あと、印象深いのは応援。

森「すごいガラガラ声の阪急のユニホームを着たおじさんがいた」

実はこの人、阪急の名物応援団長だったとかで、辻も「楽しんでやってたな~」と話していた。

ライオンズの本拠地だった福岡の平和台球場

  • 平和台球場でのエピソードを語る森

最後は福岡の平和台球場。

ライオンズが西武に身売りして埼玉に移転するまで本拠地だったところだ。

移転後も所沢のほかに平和台でも数多く試合が組まれていた。

そこで、森には今でも記憶に残る事件があった。

前日に先発登板した森はこの日ベンチで試合を見つめていたが実質は“あがり”扱いだったという。

その時、監督の根本が突然、審判に投手交代“森”と告げたという。

びっくりした森は「監督、オレここにいますよって言ったら、あっ、間違えたって」と。

本当は“松沼”と告げるはずだったらしい。

ユニホームもスパイクも履いていなかった森は慌てて着替えてマウンドへ。

打者一人に投げて事なきを得たが、驚きの登板だった。

森「根本さんは悪い悪いゴメンって」といい、“球界の寝業師”と呼ばれた根本のお茶目な面を暴露し笑っていた。

さらに驚きの出来事として森は「スタンドからブルペンにいる投手に向かってオシッコをかけるやつもいた」と話し、何でもありの昭和時代ならではのエピソードを披露していた。

佐賀県出身の辻にとって平和台球場は準地元。辻「小学校に入るぐらいから野球見に来てたからね」と思い出し、「稲尾和久さんや中西太さんに憧れていた」と少年時代の記憶を思い起こしていた。

あとは審判と他チームの捕手がけんかしていたエピソードなどを披露していた。

こうした球場も今となっては人々の記憶から消えつつある。

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